それは月が綺麗な深夜のことだった。
「いやああああっ」
彼女の叫び声が闇を貫く。
尋常ではない。何事か。
逆刃刀を手に、瞬時に駆け付ける。
「薫殿!入るでござるよ!」
普段は開けない障子を開くと、
そこには肩を震わせて座る彼女。
両手で押さえられた表情は伺えない。
悪夢に魘されたのだろうか。
「どうした?」
「けんしん・・・」
ゆっくり振り向く彼女の瞳から、
一筋の涙が流れ落ちた。
闇に輝くそれは、ともすれば
はっとしてしまう美しさで。
自分の涙に驚いたのか、
彼女は慌てて手で拭い去る。
「な、なんでもないのよ。
ちょっと嫌な夢を見ただけ。
いやあね、私、子供みたい?」
そう言って無理に笑う彼女の横顔は、
痛々しくて、儚くて、今にも消えそうで。
普段とは打って変わった雰囲気に、
少なからず動揺を抱いてしまう。
思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
羽交い締めにして存在を確かめたかった。
でも例えそうしても掴みきれないような、
そんな透明感を彼女は醸し出していた。
「よかったら、話してもらえぬか、その夢を」
代わりに出てくるのは、こんな情けない言葉。
布団の傍にあぐらをかき、彼女をまっすぐ見つめる。
「少しは楽になるかもしれない」
しばらく潤んだ瞳で俺の目の奥を覗いていた彼女は、
ぽつりぽつりと、言葉を紡ぎ始めた。
「父さんがね、亡くなったことを、知った日の夢よ」
今日こそ帰ってくる。
そう信じて稽古に励んでいた暑い真夏日。
無情にも薫の元に一通の電報が届いたのだった。
それを見た瞬間、足元がぐらつき、全てが真っ暗になって。
息が、できなくて。
その光景が、未だに頭から離れないのだ。
長い睫毛が伏せられる。
その視線の先には何が映っているのだろう。
布団をぎゅっと握り締める小さな手に触れたら、
少しはその情景を、痛みを、共有できればいいのに。
「分かってたのよ。本当は。ずっと便りがなかったから。
だけどそれでも、期待してたのかもしれないわ。
だから、もう望みがないって分かった瞬間・・・」
最愛の人を亡くす悲しみは俺も知っている。
だが、幼い彼女にとって唯一の血縁の損失は、
どれだけの傷痕を残したことだろう。絶望を与えたことだろう。
その痛みを和らげる術を持たない自分自身が憎らしい。
唇を噛んで、嗚咽をこらえる彼女。
そんな努力空しく、静かに大粒の涙がたまってゆく。
手を延ばし、袖でそれを拭いてやる。そっと、真綿で包むように。
すると、その驚いた表情から、いよいよ涙がこぼれ出す。
ダメだ、こんな目で見られたら、俺は―・・・
「ご、ごめんなさい!」
顔を背けて布団で隠す。心なしか顔が赤い。
「こんな真夜中に迷惑かけちゃって。もう大丈夫よ。ありがとう」
剣心も睡眠とらないと、明日も働いてもらうんだから、と笑う。
「よしてくれ」
自分の声に驚いた。無意識の言動なんて、普段はありえないのに。
「拙者の前では、気丈に振舞わなくて良いんだ」
本心だった。ただの居候が口にできる台詞ではないのかもしれないが。
そうでなくても俺のような人間に何の権利があるのか定かではないが。
彼女が悲しみを隠そうとすればするほど遠くに追いやられる気がして。
何もできないなら、せめてありのままでいてほしかった。
他人に見せない表情を、傍で見守っていたかった。
俺はどうしてしまったんだ。
「・・・うん」
そう口にするや否や、ふと口元が緩む彼女。
「おろ。だから笑わなくていいと」
「違うの。嬉しいのよ、本当に」
鼻をすすりながら、宝石のような涙を指で振り払う。
やはり彼女は笑っていたほうがいい。
俺だけに見せてほしい涙を知ってしまったのに、
なんだか矛盾めいているかもしれないが。
「さ、まだ夜明けまで長い。布団で休むでござる」
そんな困惑を表に出さないように、あくまで義務的に、話しかける。
薫殿が眠るまでここにいるから、と彼女の肩に布団をかける。
「・・・い、いいわよ。一人で眠れるわ」と慌てふためく我儘も、
今夜は聞いてやらないことにした。いや、そうしたかった。
彼女が眠りに落ちるまで、そう長くはかからないだろう。
観念して瞼を閉じたその穏やかな顔を、もう少し眺めていたい。
この感情を、何と呼べばいいのだろう。
いや、本当はとっくに知っているのだ。
だけど今はまだ気づかないふりをしておきたい。
それもいつまで持つか、怪しいところではあるけれど。