薫が料理を教えてほしいとせがみ始めたのは、
弥彦が長屋に移って暫くしてからのことだった。


「剣心、今日は何を教えてくれるの?」

白い前掛けをつけた彼女が目をキラキラさせながら台所にやってきた。
大分見慣れてきたとはいえ、普段とは異なるその格好に動揺する心を、
目の前の樽に積まれた大根や南瓜と一緒に冷水で洗い流す。

霰切り、などどうござろう」
「あられぎり?」
「左様。少々手がかかるのだが」
「頑張るわ!」
「ではまず基本形でござる。包丁の持ち方は?」
「任せて。こう持つのよね」
「ああ。片手は此処に」
「猫の手のように、よね」
「覚えがいいでござるな」
「ふふっ。どんどん覚えなきゃだもの」
「では次。ここからが肝心だ」
「分かった」
「まずは棒状に切り、水平に端から切っていくと・・・」

トントントントン。

「このように賽の目状の正方形になるでござる」
「わあ。お見事っ」
「さ、次は薫殿の番」
「わわわ私もやるの?今?」
「当然」
「えっと・・・こんな感じかしら」

ストンッ。

「あ、危ない。止めるでござる」
「ん?」
「この角度で切り込まねば」
「だからこうでしょ?」
「違う。それでは指を切ってしまう」
「えー?よく分からないわ。とにかくやってみる」
「待った!」

あまりにも危なっかしい手つきの彼女に慌てふためき、
あと僅かのところで振り下ろされていた包丁を取り上げる。

「ちょっと。包丁返してよ」
「やはりまだ早かったようでござるな・・・」
「そんなことないわ」
「薫殿。今日のところは此処でやめておこう」
「ええっ!嫌よ。練習しなきゃ上達できないでしょう?」
「では代わりに前回の小口切りのおさらいでも」
「もう何度もやったじゃない。霰切りやりたいー」
「我儘でござるなぁ」
「前も言ったけど、私ね、本気でお料理できるようになりたいの」
「何故また急にそのようなことを」
ふうとため息をつく。

そう。
つい先日、出稽古の帰りに『剣心、今晩から料理を教えて?』
と首を傾げながら頼まれてつい了承してしまったものの、
その行為の背景にある理由が未だに俺には理解できなかった。

如何なる理由で急にこのようなことを言い出したのか。
居候している身としては家事の従事はせめてもの奉公で。
そうでなくても料理は以前から自分が作っているのに・・・・
などと考えていると。



「だってこのままじゃお嫁に行けないもの」



しゅんとした横顔の薫が、ぽつりと小さく呟き。



「あ、えっと、あはは、何でもない。ほら私、もうそろそろ大人だし?
料理は女として当然の教養だし?って妙さんが言ってたの」

前言を打ち消すようにあはは、と笑った。




――なるほど、そういうことか。




「・・・では」
「えっ」






背後から忍び寄り、包丁を握る彼女の小さな手を上から押さえ、
南瓜を抑えるもう片方の小さな手にも同様に俺のそれを重ねる。
着物越しに伝わってくる柔らかい体温をそっと奪うかのように、優しく。
仄かに漂う彼女の甘い香りに眩んでしまわないよう、気を保ちながら。
顎のあたりに触れる細い黒髪がくすぐったい。
細い腰に己のそれをぴったりと密着させて。




トントントントン。


「こうして、こう切る、でござる。分かった?」

操り人形のごとく大人しくなった彼女の耳元にそっと囁いてやる。
今なら彼女の動きを完全に支配できるな、
などという邪念を頭から追いやりながら。




「あ・・・ありがとう。あとは自分でやるわ」

その唇と同じように赤く染まった彼女は
しどろもどろにそう言葉を紡ぐと、
俺からパッと離れ、再び南瓜に取り掛かった。
まだ危ういが、先程よりも手つきが上達している。


「薫殿。もう少し細かく刻まないと」
「わわわ分かってるわよ!」
「ちゃんと前を見て」
「もう、黙って見てて」
「・・・・・」

言われたとおり無口で見つめていると。



「剣心、やっぱりあっち向いてて?」
「おろ?」
「その・・・じっと見られるのも恥ずかしくて」
「しかし見ておかねば―」
「大丈夫よ。ゆっくりやるから。ね?」
「承知した。くれぐれも気をつけて」
「分かってるわ。ほら、もっと遠くまで下がって、あっち向いてて」

背中を押され、台所の端に外向きに立たされる。




トン、トン。・・・・トン。

後ろでぎこちない音を立てる包丁。
言いつけを破り、そっと振り返ってみると。
そこには肩を張ってまな板に向かう彼女の姿。
コツを掴んだのか、小さく歌を口ずさみながら楽しそうに手を動かしている。
高く結われたポニーテールを包丁の音に合わせてゆらゆら揺らしながら。




たまらないな、これは。







「・・・嫁になど行かせぬよ」






「え?何か言った?」

くるりと振り返る彼女の大きな瞳が、またもや俺を打ち抜く。

「否、何も」
「ってほら、あっち向いてって言ったのに!!」
「すまない。つい」
「全部できてから見せるから!ちゃんと後ろ向いてて!」
「仰せの通り」
「約束破ったらご飯抜きだからね?」
「はいでござる」


腕を組みながら、今度こそ本当に彼女から眼を背ける。
頬が思わずにやりと緩んでしまったことを彼女が知ることはない。






――もうじき食べどき。