セーラーのリボンを結びなおし、ハイソックスをずりあげ。
ローファーの音を立てないように、そろりと階段を駆け上がり。
ドアの前に立ち、白い息を吐きながら肩の上の雪を払ったあと。

カバンの中にしまってある「それ」を、そっと指でなぞった。
中に包まれた甘い実におまじないをかけるかのように。
つやつや光沢のある高価な包装紙。綺麗なピンク色のリボン。
全ては彼のために。その一瞬のためだけに、選び抜いたモノたち。

大丈夫。きっとうまくいくはず。
落ち着け、心臓。届け、この想い。

――この時の私には、勇気が満ち溢れていた。
微かな希望を胸に、恋路を突っ走ろうとしていた。
そう、この時までは。まだ何も知らなかったから。


ピンポーン。



「はい」


――出た。
ラフなTシャツにGパン。
パッと見一人暮らしの大学生にしか見えない28歳。
緋色の髪がさらりと揺れる先には、涼しげな瞳が覗いている。
こう見えて、某国立大学の研究所で非常勤助手として働いていて、
教授が手放さないほど優秀で将来有望なんだとか。
優しくて暖かくて、頭が良くて面倒見のいい、近所の自慢のお兄ちゃん。
私の、大好きな人。


「こんばんは」
「か、薫ちゃん?」
「また来ちゃいましたっ」
「雪が降ってるっていうのに。濡れなかった?」
「学校から走ってきたから大丈夫」
「そんなに急ぐなんて、よっぽど難しい問題でも?」
「ううん。今日は宿題を教えてもらいに来たんじゃないの」
「珍しいね」
「うーん、ちょっとね」

まさか言えない。
告白しに来たんです、だなんて。そんなこと。

「さあ、寒いから早く入って」

お邪魔しまーす、と靴を揃える。
あくまでも自然に。冷静に。いつも通りに。イメトレ通りに。


――2月14日。
私は人生最大の賭けに出ようとしていた。
長年の「近所のお兄さん」と「女子高生」の地位から逸脱すべく。
どう見ても兄弟のような居心地のいい関係に終止符を打つべく。
ベタながら、手作りチョコを携え、いよいよ敵陣にやってきたのだ。

何度もレシピを練習したそれは我ながらなかなかの出来。
ラッピングは勿論、リボンの掛け方一つから、手渡す手順まで、
それはそれは時間をかけ、全て抜かりなく準備完了済み。

あとはそう、突撃するだけ。
・・・だけ、なのに。
切り出せない。
たどり着けない。
ああ、これじゃあいつも通りになってしまう。


「いつものココアでいい?」
「うん」

ダイニングテーブルの定位置に着席した私に、
キッチンから聞き慣れた質問が飛んでくる。
しゅんしゅん音を立てるやかんと剣心の背中。
両親に先立たれた私にとって、それは安らぎの象徴。

2年前に引っ越してきた彼と「ご近所さん」になってから、
孤独だった世界に暖かな希望の光が差し込んだ。
気がついた時にはすっかり彼に恋していた私は、
学生の特権を駆使して、こうして時々もぐりこみ。
勉強を教えてもらうことを表立った理由に、
ぬくぬくと味わう一方的な幸せを習慣化させていた。


――でもこんなもどかしい関係も、もうおしまい。
私は今日、ご近所さんから脱皮するのだ。
そう、思っていた。

「はい。薫ちゃんはミルク多めね」
「ありがとう」
「熱いから気をつけて」
「・・・おいしい」
「良かった」
「やっぱり冬は剣心のココアが一番ね!」
「どうも。それにしても吃驚したよ。突然来るから」
「迷惑だった?」
「いや、いつでも歓迎だよ」
「やったあ。だってね、剣心のおうちだと勉強する気になるの」
「それは何より」
「先生よりよっぽど教えるの上手だし」
「でも今日は宿題をやりに来たんじゃないって言ってたね?」
「う、うん」
「どうしたの?」
「・・・・・・」


ほら、早く言いなさいよ。
ああもう、心臓がうるさい。


「何か悩み事でも?」

真剣な眼差しで私を見つめる瞳。
顔がぼっと熱くなる。
「・・・その前に、ココア、お代わりしていい?」
「もちろん」


ああ。またしても波を逃した。
キッチンに向かう彼の背中を横目に、
イスの傍に置いたカバンからそっと、
例の小さな紙袋を取りだし、膝の上に隠す。
ここなら彼からは死角の位置にある。
スタンバイオーケー。あとは切り出すだけ。


「はい。まだまだあるからね」
「ありがと。ねえこれ、どうやって作ってるの?」
「ただのインスタントだよ。ほらこれ」
「あ!それCMでやってるやつよね?うちにもあるわ」
「そうそう」
「でもどうして剣心が作ると美味しくなるのかしら。私のと味が違う」
「薫ちゃんに関してはあらゆる仮説が立てられるからなあ・・・」
「ちょっと、どういうこと?」
「い、いや何でも。あ、俺のはチョコレートを加えてるから違うのかも」

ドキッ。
本日のキーワードを先に言われるなんて。
そんな私の心情に気づくはずもなく、「ほら、市販のチョコを細かく砕いて・・・」
などとあっけらかんにレシピを披露し始める剣心の話の腰を折り、聞いてみる。


「・・・け、剣心って、チョコとか、好きなの?」


「甘いものは好きだよ」
「そ、そうなんだ」
「それにほら、薫ちゃんが好きだから」
「えっ!?」


今、何て?
何と言った?この人は。


「ここに引っ越してきてから、随分詳しくなった気がする」
「あ・・・そうよね、剣心、いつもお菓子を作ってくれるものね」


ああ、心臓に悪い。


「そういえば今日ってバレンタインなんだってね」
「そ、そうよ。やだ剣心、知らないの?」
「さっきニュースでやってた。すっかり忘れてたよ」
「ちょっとー。女子にとっては大切な一日なのよ?」
「てことは、薫ちゃんも誰かにあげたの?」
「わ、私は・・・」
「あはは。ごめんごめん。プライバシーの侵害か」
「・・・・・」


貴方に、あげたいの。
そのために来たのよ。
などと言い出せるような空気ではなく。
私は結局、いつものように心地よい会話に流されていった。
剣心とのなんてことない会話が、私には至福の時間だから。
――だった、から。




「そういえば。数Bの試験、どうだった?」
「それがね、驚かずに聞いて!」
「なに?」
「95点!」
「記録更新。すごいじゃん」
「でしょー!」
「おめでとう」
「えへへー。剣心のおかげね」
「薫ちゃんの実力だよ」
「この調子で受験も頑張るの。あと1年だし」
「・・・・・」
「高3になったら、今よりもっと勉強がんばるからね、私」


そう。
もっともっと勉強を頑張って、
あわよくば剣心と同じ大学に合格して。
彼に認めてもらうのが、私の長年の夢だった。
剣心に恋してから、それは一寸たりとも揺るがない。

そして、いつかキャンパスの並木道を一緒に歩くんだ。
しっかりと腕を絡ませて。頬なんか寄せちゃったりして。
こんな子供じみた制服じゃなくて、もっとお洒落なお洋服を着て。
ちゃんとお化粧とかもして、ネイルだって綺麗に塗って。
年の差なんて気にならないくらい、素敵な大人の女性に変身して。
剣心に釣り合う恋人として、颯爽と前を向きながら隣で・・・



「・・・薫ちゃん」
「は、はい」
「実は、大事なことを伝えなきゃいけないんだ」
「剣心が?私に?」
「そう」
「う、うそでしょ?」
「本当」


突然途切れた妄想から戻された現実はまさかの非常事態で。
剣心が私に大事なことを伝える?
そんなこと、今まで一度もなかった。
だっていつも私ばかり一方的におしゃべりしているのに。
それに、だって、今日は。


「・・・・・わ、私も、なの」
「薫ちゃんもあるの?」
「う、うん。大事な、おはなし」
「もしかしてさっきの悩み事ってそれ?」
「え・・・・えっと、その・・・そう、かも?」
「じゃあ先に言って」
「う、ううん。剣心からどうぞ」
「いや、そっちの方が大切だから」
「でも・・・」
「悩んでいるんだろ。相談に乗るよ」


またそんな真面目な表情をする。
その瞳に私はいつも冷や冷やさせられる。
私の片想いも全て、見透かされそうになる。

それが怖くてつい放ってしまったこの一言を。


「やっぱり、いい。剣心から先に言って?」


いつまでも後悔することになるなんて、あの時は思いもしなかった。
――もしあの時、私から話しだす勇気さえあれば。
少しは変わっていたのだろうか、私達の関係は。




「実は・・・」



ごくり。
テーブルの下でぎゅっと握りしめた紙袋が、カサっと小さく音を立てる。





「結婚、するんだ」




――彼の放った音が意味を持つまで、しばらく時間を要した。
ようやく頭に入ってきた瞬間、足元がふらついて倒れそうになる。
息が苦しい。胸が痛い。目がチカチカする。指が震える。



「結婚・・・?」
「そう。つい先日、決まったことなんだけど」


照れながら話す彼の口元は、いかにも幸せそうに緩んでいて。
いつもちょっぴりだけ悲しみを隠していた瞳も、今は一点の曇りもない。
普段であれば、彼の新しい一面を知ることは私の何よりの喜びなのに。
今の私には、もはや何の感情ももたらさなかった。



「相手は教授のお嬢さんなんだ」
「半年前に紹介されてから付き合い始めたんだけど」
「再来月には式をあげることになった」
「落ち着くまでしばらく研究はお休みをいただくことになって」
「来週、田舎の彼女の元に引っ越すことが決まった」
「・・・だからごめん。薫ちゃんの受験は、見てあげられない」



体が水底に沈んでいくようだ。
光が消える。息ができなくなる。
遠くからゆるやかに声が聞こえる。
このまま沈没してしまいそうになる。


――ダメよ。
普通、こういう時、人はどうするもの?
ああそうよ。お祝いしないと。笑顔で。


「おめでとう」


にこりと笑って祝福の言葉をかける。
棒読みとはいえマニュアル通りにできた自分にビックリする。
声を出した瞬間に泣きだしてしまうかと思ったのに。
涙も驚きすぎて目の中で硬直しちゃってるのかもしれない。
だって好きな人が結婚だなんて、ドラマじゃ大泣きのシーンよね?
なーんだ、私も冷静に振舞えるんじゃない。
オトナに近づいた証拠かな。
・・・などと考えることでなんとか保っていた平静は。



「ありがとう。薫ちゃんに言われるのが一番嬉しいよ」


――こんな残酷な一言に、簡単にぐらついてしまうほど脆かった。
うっかり喉に込み上げてきた衝動を必死に抑える。

ダメだ。
ここで泣くのだけは免れないと女が廃る。
冷めたココアを飲み干し、空になったカップを手に抱えて俯く。



「ああ、ごめん。俺の話ばっかりして。さあ、次は薫ちゃんの番だよ。
勉強の悩みだったら、そういうわけで、もう見てあげられないんだけど・・・」
気まずそうに頭を掻き。

「でも、メールや電話で良かったら、いつでも喜んで教えるから」
澄んだ眼差しに、真剣さが伝わってくる。
口先だけじゃない。本当に私のことを考えてくれている。



――ああ、なんて。
なんて優しい人なんだろう。
優しくて、遠い人なんだろう。

彼が私のような子供を相手にするはずないじゃない。
なんという無謀な恋をしてしていたんだろうか、今までの私は。
きっとお相手は彼と同じように素敵な女性なのだろう。
そうよ。だってこの剣心が好きになるような人だもの。
私と違って頭が良くて、料理も上手で、綺麗で、大人で・・・。

こうしてリストアップしてみると、自分の幼さばかり目について。
なんだかショックを通り越して肩の力が抜けてきてしまった。



「ありがとう。でも、大丈夫。これからは自力で頑張ります」
「薫ちゃん?」
「私もね、そろそろ頼ってばかりじゃダメだなって思ってたの」
「・・・・」
「それより剣心、お嫁さんはどんな人?いくつ?写真はないの?
っていうか、来週もう引っ越すなら、もうそろそろ荷造りしなきゃじゃない?
お嫁さんの実家はどこ?東京より寒いのかしら?新幹線でどのくらい?」

ラジオのDJみたいに口が勝手にまくしたてる。
正直、どの質問にも答えなんて欲しくなかった。
ううん、本当は知りたい。めちゃくちゃ気になる。
でも彼の口からは聞きたくなかった。
だけどここに来た目的が失われてしまった今。
沈黙を埋められるならそれで良かった。
それなのに。


「俺は薫ちゃんの話が聞きたい」



――やめて。


「今日の薫ちゃん、いつもと雰囲気が違うから気になってた。
俺なんかで良ければ、少しでも力にさせてほしい」


そうやって私の心を揺さぶらないで。
だって私は。



「失恋したの」
「・・・薫ちゃん?」
「今日ね、ふられちゃったの、私」


もうどうにでもなれだ。
軽く笑い、テーブルの下で硬直していた膝をえいっと伸ばした。
その拍子にさっきまで大事に抱えていた紙袋がぽさりと床に転げ落ちる。
そうだった。こんなものを作っていたんだっけ。私ったらほんと馬鹿みたい。


「ほらこれ、その人にあげようとしたチョコレート」
何時間もかけて丹念に完成させたラッピングもお構いなしに、
ためらわずバリバリと袋を破き、中からトリュフを取り出す。
生チョコを溶かしてアラザンをまぶしたそれは、
まるで小さな宝石のようにキラキラと輝いていた。

「これね、結構いけるの。あ、元々チョコだから当たり前だけど。
でも、私にしては上出来すぎるくらい上手くできたと思わない?」

トリュフを指先でつまんで蛍光灯にかざす。
こうして取り出すのは剣心の予定だったのだけど。

「でも渡せなかった。その人には好きな人がいたの。
私、そんなことも知らなかった。ちゃんちゃん、おしまい」

本来の役目を果たせなかったトリュフを袋に押し込み、
首をかしげ、肩をすくめて明るくおどけたりしてみる。
相変わらずの沈黙を貫く剣心に不安を抱き、
そっと彼の方に視線をあげると。


「・・・ごめん」

指を組みながら、痛々しい表情で私を見つめて剣心が言う。

「そんなことも知らずに、自分の話なんかして」
「どうして剣心が謝るの?」
「だって・・・」
「むしろ幸せを分けてくれて嬉しいわ」

そう。
だって剣心の幸せは、私の幸せだもの。
だからちっとも悲しくなんて――


「これ、食べていい?」
「え?」
質問に答える間もなく。

「・・・うん。甘い」

いつの間にか向こうの手に渡っていたトリュフは、
ぽんっと剣心の口の中に消え。


「美味しいよ。薫ちゃん」


私が大好きな、彼の満面の笑みを引きだした。

ニコリと微笑むその顔は、私の夢見たシナリオそのままで。
実現できなかった幻のハッピーエンドが虚しく襲いかかってくる。
たちまち胸の奥からジンジンしたものが込み上げ。
洪水を止めていたダムが崩壊してしまった時のように、
私のコントロールを無視して一気に押し流れようとする。
こんな顔、見せられない。


「・・・私、帰るね」
およそ0.5秒でカバンを引ったくり、一目散に玄関へ走り出した私は。
次の瞬間、ふわりと温かい何かに背中ごと覆われていた。


「薫ちゃんを振るような男なんて、忘れていいよ」


剣心の声が吐息に包まれて降ってくる。
もう限界だった。涙がぼろぼろ溢れ出す。
この場から消えたいのに、羽交い締めにされて動けない。
ううん、ちがう。
もし動けていたとしても、私はその場に凍りついていたかもしれない。
だって剣心がこんなに近くにいる。
私を、抱きしめている。
切なくてたまらなかった。
愛しくてたまらなかった。


「・・・っ・・・忘れ・・・られるわけ、ないもん・・・っ」
「いいんだ。忘れて」
「できない・・・!」
「薫ちゃんを本当に大切にしてくれる男に、すぐ出会えるから」
「・・・でもっ・・」
「俺を信じて」
「嫌ぁ・・・っ」
「薫ちゃん」
「だって、だって・・・!」


だって私は、貴方が好きなの。

ずっとずっと好きだったの。

今もこれからも、きっと大好きなの。

遠くに行かないで。誰かのものにならないで。

私をこのまま、離さないで。


声にならない叫びは、もう永遠に届くことはない。
夢にまで見た剣心の抱擁は、消えない痛みを私に残し。
幼い恋心は、残酷にそっと、あとかたもなく溶けてゆく。

肩を抱く彼の手の薬指にいくら焦がれたところで、
私というちっぽけな存在がそれを越えることはできない。

どうせこれが最後なら、思いきり胸の中で泣いてやろうと思った。
ここにある温もりを全部奪って記憶してしまおうと思った。
それくらいの我儘、貴方なら許してくれるでしょう?


窓の外で、雪が静かに、しんしんと降りつづけていた。