「そうです。こういう状況で相手が仕掛けてきたら、まずは
柄で竹刀を上に押し上げて、その隙にこの角度で胴打ち」
「こう?」
「手はこの位置がいいですね」
「・・・こうかしら?」
「うん。さすが飲み込みが速いなあ。薫ちゃんは」
「宗ちゃんの教え方が上手いからだわ」
「いえいえ。薫ちゃんはますます強くなりますよ」
「本当にそう思う?」
「ええ」
「ふふっ。嬉しい」

パッと笑顔を咲かせる薫。
その桜色の頬に手を添えて、宗次郎は。
「・・・可愛い」
涼しげな瞳を向け、そっと呟く。

「そ、宗ちゃん!」
赤面しながら慌てて離れる薫。

実は宗次郎のこんな表情は初めてではない。
常にニコニコしているのに、突如こんな顔をして接近し。
今のような甘い台詞を平気で口にする。
その瞳は緋色の彼が時折見せるそれとよく似ていて。
思わず重なってしまうその影に、ドキリと心臓が跳ねる。
――無論、彼はそんな言葉を口にするはずもないのだが。
そのたび薫は、片恋の切なさにぎゅっと締め付けられる。

「ははっ、ごめんなさい。つい」
「もう、褒めても何も出ないわよっ」
「じゃあ次は引き胴を練習しましょうか」
「うん!」





「おい剣心、こんなところで盗み見かよ」
「まさか。朝餉の用意ができたから呼びにきただけ」
「じゃあどうして壁に隠れて突っ立ってんだよ」
「・・・たまには稽古の観察もいいものでござる」
「毎日見てるだろうに。つーかさっきものすごい殺気が出てたぞ」
「・・・・」
「ったくあのブス、すっかり洗脳されちまって」


――道場で触れ合う、仲睦ましい二人の姿。
まだ出会って僅かなのに、それはまるで親しい兄弟のような、
あるいは幼い恋人のような面持ちを持つようになり。
先程のような危うい場面も、傍から見ればどこか美しく。
もし剣心が流浪人として此処に辿り着いていなければ、
ともすれば薫も、年が近く、剣術に熱心な彼のような青年とこうして
一緒になっていたのではなかろうか、などと容易に想像できる程、
宗次郎はごく自然に、すっと薫の柔らかな空気に溶け込んでいた。
・・・だからこそそれは、剣心の心を複雑に揺り動かす。


「あーあ。すれ違いばかりなのな、お前ら」
弥彦の言葉にドキリとする剣心。
「何の話でござろう」
「薫のやつ、剣心と喧嘩してかなり落ち込んでたから、
なおさら宗次郎の稽古に没頭してるんだと思うぜ」
「薫殿が?」
「ああ。だってお前ら最近まともに口聞いてないだろ」
「・・・・」
「あいつ、鈍感だからさ。剣心の心配が分からねえんだよ。
自分を全て否定されたとでも思ってるんだぜ、きっと」
「決してそういう訳では」
「じゃあどういう訳なんだよ」

やってらんねえ、と言わんばかりの表情で少年はその場を去る。
「ま、お子様の俺にはよく分かんねーけど。ちゃんと話し合えよな」






「薫殿」
「け、剣心」
昼過ぎ。
道場に繋がる縁側にて、剣心と薫が出くわす。

「昨日のことについて話がある」
「どうせまたお説教でしょ」
「違うでござる」
「悪いけど、もうすぐ宗ちゃんと昼稽古をする約束をしているの」
「・・・行かせない」
「え?・・・ちょっと!」
突然ガシっと腕を掴まれた薫は、苦痛に眉を顰める。
全力で振り解こうにもびくともしない。
そのまま縺れ込むように隣の部屋に追いやられる。

「やめて」
「薫殿が話を聞くのなら」
「聞くから、離して」
薫が抵抗しないことを確認し、剣心は力を緩め、障子を閉じる。
しんとした部屋に二人きり。それは随分久しいことのように思えた。


「薫殿、改めて言う」
強い視線で薫を射抜く。
「頼むから今回のような無茶はしないでほしい」
「ほら、やっぱりお説教じゃない」
「そうではござらん」
「何度も言うけど、困っている人を助けるのは道理でしょ」
「それは否定できないが」
「そうよね。剣心もやっていることよね」
「しかし危険が薫殿にまで飛び火しているとなれば話は別だ」
「だーかーらー。何のために活心流を嗜んでいると思ってるの?
今日もたくさん稽古したのよ。宗ちゃんが教えてくれたから」
最後の部分に、剣心の体がピクリと反応する。


「・・・宗次郎の話はいいでござろう」
「どうして?」
「今は関係ない」
「あ、剣心焼きもちやいてるの?」
「そうではござらん」
「残念でしたー。悪いけど、昼間は私が宗ちゃんを一人占めするから。
話したかったら夜隣で寝るときにたっぷり時間があるからいいでしょ」
「ってそっちでござるか」
「他に何か?」
「いや、むしろ逆・・否、そうではなくて!」
片手で頭を抱えながら仕切りなおす。


「剣術を続けるためにも、まずは自分の身を大切にするべきだ」
「してるわ充分」
「ではこの傷は?」
つい昨日の朝方、己が巻いてやった足の包帯を指さす剣心。
「こ、こんなのちょっとした掠り傷じゃない」
「ちょっとした掠り傷を毎日増やすのはいかがなものか」
「別になんてことないわ」
「そういう問題ではない!」
眉をひそめて声を荒げる剣心に、薫は思わず押し黙る。


無論、剣心のその怒りは薫に対してではなかった。
それは薫に傷をつけた無粋な男共に。
また、その場に居合わせなかった自分自身に。
そして何より、それを伝えきれない己の不甲斐なさに。
行き場のない感情との葛藤が故に、なのだが。
未だ打ち明けられていない薫への想いが、
己の感情への自縛が、剣心の言動を複雑に阻む。

本音を曝け出すとしたら、
彼女の笑顔を失ってしまうことが恐ろしくてたまらない。
彼女に不穏な事態が発生することは命を賭けてでも避けたい。
彼女との未来を、自分の未来を、重ねて全て守りたい。
それだけ薫の存在は剣心にとってかけがえがない、尊いものだった。
だからこそ薫の一挙一動に全神経が反応してしまうのに。


「昨日だってそうだ。相手が宗次郎だったから助かったものの、
そうでなければ今頃どんな惨事になっていたことか」
剣心の鋭い眼差しから、薫はついぞ目を背け、くるっと背中を向ける。
「そ、そりゃあ、拳銃には勝てないけど・・・」

そっと俯く薫の白い項は、それはそれは美しく。
男なら誰もがあらぬ欲望を抱いてしまいそうなもので。
そのまま後ろから抱き寄せてしまいたい衝動をぐっと抑え、
肩にそっと手を乗せるに留めた剣心は。



「それに、若い娘を良からぬ目で見る男も大勢いるでござる。
そんな危険から薫殿を守るのは拙者の当然の役目だ」

最も回避したい事態への警告を口にした。
薫がどうか気づいてくれることを祈って。



――若い娘。


しかし、この言葉に唇を噛む薫に、剣心は気付くことができず。
「だから、今後何か起きた時は手をかけずに拙者を・・・」
そう言葉を続けた瞬間。




「またそうやって人を子供扱いして!」
突如振り返り、剣心の手を振り払う薫。
「私だってもう大人よ!馬鹿にしないで!」


さっきまでのしおらしい姿は一転、曇り空に。
感情を揺さぶられると瞳が潤む薫の表情に
剣心は弱かった。どこか怯んでしまう。


「・・・そういうつもりなど一切ござらん」
「だったらどうしてそんなこと言うの!」
「薫殿、落ち着いて」


「そりゃあ剣心から見たら小娘かもしれないけど、
だから無茶するななんて、そんな気遣い、いらないわ」
大きな瞳が瞬くと同時に零れ落ちた一粒のしずくが、
すっと頬に綺麗な線を描く。



「どうして剣心は私を一人前に見てくれないの?
剣士としても・・・女としても」



心外な彼女の言葉。
剣心が間髪を入れず反論しようとした瞬間。



「・・・宗ちゃんは私を対等に扱ってくれる。
もっと強くなるように剣術も教えてくれるし、
可愛いねなんて、お世辞にも言ってくれるのよ」




薫のこの一言に、剣心は思わず言葉を引っ込めた。
言い放った薫自身、己の言葉に驚いて口をつぐむ。
どうしてこんな流れになってしまったのか計りかねる。
障子の隙間から差し込んできた夕日の美しさとは裏腹に、
重苦しい沈黙が二人の間を流れ続け。



「薫ちゃん」



そこに現れた渦中の人間。
障子を開き、二人のいる場所へ歩みを進める。





「何の用でござるか」


薫の傍に来た瞬間、剣心の低い声が上がった。
触るなと言わんばかりに目で威嚇する。
だが宗次郎はものともせず、冷静に言い放つ。


「女の子が泣いているんですよ。用も何もないでしょう」
薫の涙を袖で拭いながら、その小さな手を引き。



「薫ちゃん。こっちへおいで」
引きずられるような格好で、薫は宗次郎のあとを無言でついていく。
黒い艶やかなポニーテールが、剣心の瞳の中で揺らめき続けていた。